Anne with an “E” 『アンと言う名の少女』を観て L・M・モンゴメリの小説『赤毛のアン』(1908年)を原案としたテレビドラマシリーズ。 2017年カナダCBCとNetflixにより共同製作され、NHKで2021年9月から2022年3月までシーズン1から3までの全27回が放映された。その後制作そのものが中止されている。 シーズン3で制作を中止した理由は「CBC側の判断で、長い目でカナダの産業の害になるNetflixとの共同製作はやめる」らしいが詳細は不明。モンゴメリの作品群を批判することもあったらしい。最近製作再開を願う声が上がっているようだ。ドラマを観て感じたことを記録しておきたい。 NHKのHPからお借りしました。感謝。 内容は 原作『赤毛のアン』へのオマージュのように見えなくもない。原作に描かれなかった現実を、映像の力を借りて視覚化したもので、別な視点からアンが生きた時代を俯瞰 し、現代カナダが抱える問題をその中に挟み込んだ状態で表現されている。そのため原作にない人物設定や出来事が加えられていて、これは「アン」の名前を冠した別の映像作品とも取れる内容になっていた。 扱う内容は、ジェンダー、人種差別、経済格差、いじめの問題、LGBT、女性の自立、奴隷制度、先住民族への偏見とキリスト教文化への強化などで、さまざまな問題が交差している。複雑なカナダの歴史を垣間見たような気がした。 半世紀もアンの世界に接していて、かねて疑問に思っていたことがある。フランス人に対する蔑視の視線が見える。子供の世界で新参者に対する「いじめ」が無かったのか。はじめリンド夫人との行き違いがあったが、アヴォンリーの村社会にすんなり受け入れられたのはなぜか。アンの魅力があったにせよ、どうやって養育者の二人に家族として受け入れられたのか、などだ。 原作は「白人+その宗教」、つまり白人社会の世界観で描かれている。規範は常に白人の側にあり、先住民は矯正すべき存在である考える。まずこのことに引っかかっていた。 特に南米に住んでいた経験があり、支配と被支配の関係性がどのようにその民族のIDを損なうものかを気付かされたからだろう。 キリスト教に改宗させ使用言語さえ奪おうとする動き—---これは世界のあらゆる歴史に登場する。 たとえば主人公を演じたアン・シャーリー役のエイミーベス・マクナルティ(Amybeth McNulty)は、アイルランド、ドゴニール県の出身だが、この土地こそケルト民族の母語が現在も辛うじて存続している土地である。 加えてフランス人とフランス人社会に対する蔑視が原作にある。しかしフランス文化への憧れも確かに精神の底流の流れているのを感じていた。さらに原作では先住民族に対する言及がないが、アンの時代には現実に存在したはずだ。 これらの、原作に対する私個人の不満が、今回のドラマで取り上げられ問題にされているのを見て、やはり自分の感覚は普通にあるものだと受け取れたのは 過去への安心材料だった。 しかし、「原作を長い間好きだったから」、原作には「ポリティカル・コレクトネス」があるかと問いただすのは間違いだろう。小説は作者が書いた内容を読者が受け取るもので、書かれた内容も、その受け取り方は自由なのだから。 「20世紀初頭から存在し続けているカナダの多様性が、原作に表現できていない。」だからドラマの制作が中止されたとの報道があるが、この意見には賛成できない。ある時代に書かれた小説は、その時代を背負って生きている作者の考えや感覚を代表させているもの。思考形態や表現が偏っているのは当然だろう。 ただ、『赤毛のアン』はカナダ人とカナダ文学に取って重みを持つ作品だ。だからこそドラマ制作者は、現代社会の中のポリティカル・コレクトネスの考えを採りいれた作品にしようと考えたのか。 全27回の放映を通じて、アンが成長していく。一人の少女の成長物語の、その成長の過程をリアリズムそのもの表現方法で描かれていたので「これは原作とは別物」と感じつつも興味深く視聴できた。単純に楽しかったかと聞かれると、言葉を濁すしかない。 このドラマのなかでのアンの性格設定 子供に必要なものがアンには与えられなかった。まず愛情が。衛生的な生活環境に栄養ある食事。そして大切なのは他者との良いコミュニケーションが無かったことだ。精神は外界と接触し繋がることで成長していく。(参照:池谷裕二著『脳はみんな病んでいる』) G.G.に迎えられて初めて一般社会と触れあい、その社会に適応しようと努力するが、行動の基準になるものを身内に取り込まないままで成長してきているので、時に問題行動を取ることがあった。 多動がある。突発的に行動し、怒りを抑えきれず、嘘を吐くことも他人の物を黙って持ち出すこともあり、たまに養育者の愛情を試そうとする場面さえあって幻滅した回もあった。 そのせいで途中こ、ドラマののアンは知能が高く言語能力に優れていることから「高機能スペクトラム自閉症」ではないかと疑ったこともある。 「怒りのコントロール」が成長するにつれ、重要な意味を持ってくる。怒りはエネルギーにもなるが、問題と捉えられる危険もある。 ドラマの中のアンの精神は、あるところでデジタル社会に生きているようだ。そのものが自分に取って重要かそうでないか、これを基準にしているようにも思える部分があった。しかしこの時点ではアンはいまだ未熟なまま のフェミニスト。女性の権利、社会的不公正、自尊心を持って生きようといったテーマに突き動かされるままで、他人と強調しながら行動することを知らない。 幼いころの孤児院でのみじめな生活がフラッシュバックするシーンが何回かあった。このシーンは視聴者の共感を呼ぶもので、これがあったことで、アンの突出した性格を理解する手助けとな った。 アンは、想像力豊かと表現される。ではその想像力とはなにか?原作には具体的にアンがどのような想像をめぐらしたかの記述は少ない。 想像力にはいくつかの側面がある。 1)現実逃避 2)楽しみの意味合い 3)将来を見据えて来たるべき場面や時期を想定して人生を設計しようとする。未来に向けて準備する心、つまり予測の能力を持つこと。 言い換えれば、現在を将来に重ねることができるということ。 アンの子ども時代は1)と2)で、自身の救いとして機能した想像力だったと思う。 マリラの勧めと本人の自覚によって進学して自立しようと想像・予測し実現に向けて努力しようする。こういうアンに導いたのは、まずマリラとマシュウの力が大きい。そして周囲の先生や友人たちとの交流によって。特にミックマック 族のカクウェットと知り合い、カリブ文化を背景に持つバシュー(黒人)との交流を通じて「他人に何かを与える存在」に成長していく。一人の女の子が大人になっていく過程がドラマの中心にある。変化と成長の過程こそが大切なのだと思わされた。 自己主張しながら、自分を地域社会に受け入れさせてしまうアンの背景にあって無視できないのが、ドラマのアンに大きな影響を与えたマリラとマシュウ。 マリラの、原作以上に描かれた「母性の発露」はもちろんだが、もともとマリラが持っていた「知性」に注目したい。父権社会のなかで自分も含めて置かれた女性の地位と、そのなかで押し付けられた女性としての生き方を疑問視し、その疑問をアンの成長とその先の人生に重ね、時にはじっと見守る姿勢が尊い。 原作ではマシュウとの関係は「兄と妹」となっているが、このドラマでは「マリラ+早逝した弟+マシュウ」と設定されている。そのせいかマシューに対する態度に、姉としての決然とした意志を感じることがあった。 3人の子どもの母親は、息子の死を乗り越えられなかったので、マリラは早くから主婦代わりに働き、結果結婚できなかった、との設定がなされている。つまりマリラは今のヤングケアラーだったのだ。 ドラマの後半に入ると、このマリラの性格が次第に変化していくのが見て取れて興味深い。厳しさと愛情との兼ね合い、アンを失うことへの恐怖が良く表現されていた。隠れた主人公はマリラではないかと思えるまでに。 NHKのHPからお借りしました。感謝。 原作でのマシューは、母親思いの自閉気味で内気な少年がそのまま年齢を重ねたように感じられた。 ところが、アンの活動的な性格に影響されたのかもしれないが、このドラマでは、他人とのコミュニケーションにやや難があるものの、アンに対する愛情表現が具体的で、少年時代の恋のエピソードも挟まれて、原作よりもずっと大人の男性に描かれている。 愛情を言葉や行動で表すことは大切だ。特に日々の愛情表現---例えばハグなどに。養育者の二人が自然に行動しているのを見るにつけ、キリスト教文化と日本の文化の違いを思い知らされた。 他に特筆すべきはリンド夫人。村の女性の中心人物で、能力のある女性として描かれている。リンド夫人とマリラの関係が面白い。幼馴染の二人は個性がそれぞれ際立ち、 対等な関係にあり、引っ張っても容易に抜けないほどその土地に根を下ろしている。互いに許し合う寛容の精神が二人の間に横たわっている。これはこの年齢の女性の付き合いとしては理想的なものだろう。 ほかの女性たちは---プリシーの母親は子供にもっと教育をと考え、ダイアナの母は娘を花嫁学校に行かせてステレオタイプの主婦になるよう希望している。「新しい教育を考える母親の会」、「教会の理事の集まり」のなかでの論議、牧師自身が「女は家庭にはいり良き妻になれ」と説く。 さまざまな立場の人間が、信念に従って多彩に行動しているのが興味深い。 ステイシー先生は自立した現在のフェミニストに通じる精神の持ち主。経験から学び、やがて来る新しい世界に適応できるよう、子供たちを導く。ただあの時代にこういう人物が 生き方を貫くのは難しかっただろう。 ビリーとその仲間たちの、アンやコークに対するいじめや意地悪、他者否定のすさまじさ。ここまで表現しようとした製作者の意図がいっそのこと潔い。 忘れてはいけなのは、ダイアナの賢さ。場に応じて行動でき、社会性や協調性があり他者の立場を想像して思いやる心を持つ。半面ジェリーとの幼い恋も、自分 で断ち切るほどの意思の強さを持つ。豊かな家庭環境のなか、安定した親子関係のもとで育った人間の持つ、性格のまっすぐさ、他人の優れたところを見ようとする姿勢はアンに良い影響を与えたことだろう。 (われながら思うに、この意見はいかにも日本人的だ) それにしてもギルバートの性格が良く見えてこなかった。なぜか。大切なことを決定するにはアプローチが短すぎる。ただし、父親ジョンの介護をすることから、島のあの時代の「老いと病」への村人の対応が見えてきて興味を惹かれた。 共同体としての農村の暮らし、政治力として働く宗教 原作の時代(19世紀終わりから20世紀初め)には、島の経済、社会基盤は「農」にある。しかし、原作には具体的な農の描写が少ない。これは作者モンゴメリの成育歴と生活環境にその原因を求められようか。 原作では人間関係を中心に話が進んでいく。したがって日常大切ではあるがやや付随的なもろもろ(お茶会、服装など)に 関心が寄せられ、日本の読者たちに(作者と同じく農作業の辛さを知らない)に『赤毛のアン』がアピールするという反転現象が起きている。ところがこのドラマでは、農作業がかなり現実として描かれていて、感情移入できた。 宗教は人々を律し、ほとんど政治力として機能している。他人も自分も縛り付け、疑問を持たずに暮らすことは、開拓から始まった村の社会では、必要な意味づけだったのだろう。 村社会の結束がルビーの家の火事の場面で強調されていて、同時代の日本と比較対照すると興味深い。相互監視は相互扶助に繫がる。これを思い知らされた。 秩序からはみ出す者を排除しようとする動きは、どこの世界にもあるはずだ。 村社会での暮らし、教会を中心とした生活、品評会、学校行事など、同時代の日本はどうだったのか、比べてみるのも面白そうだ。 社会集団の規範が表れているのが宗教だとも考えられよう。 ただ、島の生活は、日本のその時期の暮らしに比べて豊かだとの印象を受けた。なぜなら、原作に設定された時代の日本は、日清戦争(1894年から1895年)と日露戦争(1904年から1905年)の間に当たり、日本の農業には、小作農と自作農、大農家といったヒエラルキー構造が存在したからだ。もちろん原作には自立した農家だけが描かれているのを忘れてはならないが。日本の農家の貧しさを知っているからこそ、古くからの日本の愛読者は「カナダの、島の暮らしの豊かさ」に憧れたのかもしれない。 追記:友人K氏から教えていただいた。 「「人類を基盤とした政治は存在しない」(政治は元来、特定の地域・集団を前提として、他の地域・集団に対する対抗と闘争の可能性を内包しているところに成り立つ。すなわち、単位社会の特殊性(particularism)が政治行動の基盤をなす。丸山眞男講義録第4冊から)」 なるほど、宗教が政治として働くのは、当然のようだ。 移民の国カナダの東の島 島での「白人優位」文化において、アメリカ本土と違い黒人(この時代、奴隷制は無い 。そもそもカナダが奴隷制を導入していた時代があったのか。要調査))の人口が少ないようだ。このドラマを知るまでは、島に黒人が住んでいたことに気付かなかった。このことは新しい発見だった。白人と黒人の対立もあるが、原作にあるようにイギリス系とフランス系の「白人と白人」の対立が浮き上がってきている。イギリス帝国に所属した歴史もそれに大きく影響しているようだ。アングロサクソンが優位にあるとの意識が強い。 G.G.の使用人ジェリーは、フランス系で、アカディア人の血を引いている。ケベックのフランス人社会と異なり、土地を持たない離散した少数者であるがゆえに、運命を受けとめ地道に生きようとしている姿かまぶしい。そこへドラマのアンが「ジェリーは何者にもなれる、政治家にも作家にも詩人にも」とお得意の想像力!を働かせるシーンがある 。 学校へも通えず日々暮らすことで精いっぱいのジェリーにその言葉を投げかけるアンの、それこそ想像力不足からくるものでやや反感を持った。 「黙々と働く人間のそばで決して饒舌であるな」! しかし、フランス系移民のジェリーに代表されたアカディア人は、ドラマ設定の時代から次第に英語文化に影響されてフランス語を次第に忘れていくのだろう、と思わせてくれる。これを置かれた人生に対する適応と考えるか、祖先との断絶と考えるか。地道に働くジェリーが、次第にマリラとマシュウに受け入れられていく展開に、働く人間 を信頼し農業への確固たる信念を持つ二人を見る思いだった。 アカディア人:(ノヴァ・スコシアを中心とする地域に定住を始めたフランス系の末裔。 アカディア←アルカディアから) しかし、奇妙なことにアカディア人に対する偏見があるものの、フランス文そのものへの憧れは存在していたらしい。 (例 ダイアナのフランス語の勉強 、パリの花嫁学校へ行く) アンと先住民族の娘Ka'kwetとの関係
シーズン3で中止とな
り、その後の歴史はドラマ化されていないが、ここまで観た限りでも、先住民族ミックマック族へのキリスト教社会への同化政策とその強権発動ともとれる実施方法に驚いた。しかしこういう事態になるのは歴史の必然かもしれない
。
言葉を奪われる、言葉を奪う。新しい言語・英語に適応すると何が起きるか。家族や世代間の断絶が起きる。文化の継承がなされない。
新しい社会への働き手として故郷を捨てる事態も起きるだろう。しかし、世の中は有為転変であり、権力の傘の元に入るのは人生を送る上の一つの方策でもある。
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