じゃがいもの実   

    じゃがいもの実 トマトとジャガイモは植物学上同じ「ナス科」に分類されています。

ジャガイモはナス科ナス属の多年草。あのどっしりした丸い実は、実は地下茎。
地上部は枯れても、地下茎は栄養分を蓄えて大きくなり、「塊茎・かいけい)と呼ばれる、料理やお菓子などに利用される「ポテト」と化すのでした。この芋(塊茎)は、母個体とそっくり同じもの。
ある種の植物、ここではジャガイモは動物と違って動けないことを逆手に取り、まるで『古事記』の神産みの神話のように自分の分身(クローン)を作ります。しかし抵抗力を持たない病気に罹るとひとたまりもありません。そこで考えました。種子を作って遺伝子の多様化を図ろうかと。

おそらく島ではジャガイモの品種のうち、果実が稔りやすい種類が栽培されていたのでしょう。 傾向としては、冷涼、または寒冷地で栽培される品種、たとえば、現代の北海道で多く栽培される「ホッカイコガネ」(これはフレンチフライに利用されることが多い)、「キタアカリ」などと言った品種に果実ができやすいようです。
気候が冷涼で生育環境が厳しいことから、果実を実らせ遺伝子を残すための努力がよりなされているとも考えられます。
クローンをつくる方法はさまざまで自家受粉、球根、塊茎、むかご、ランナーなどの形を取ることもあり、ブルーベリーのように、根のいろいろな部分から芽を出して、いきなり大きな子供を作ることもできるのです。
種子を作ることは、時空を越えて旅をすること。これは遺伝子の多様性に結び付きます。
環境の変化に適応し、生き残りをはかる植物と、クローンをつくることで確実に自身の遺伝子を残そうとする植物の努力と。
知れば知るほど、植物の隠された知恵には驚嘆するばかり。
 
  ゃがいもの実を飛ばしに行きましょう。とても面白いわよ。」
「じゃがいもの飛ばしからなんて知らないわ。それ、何なの?」
「ちっちゃな青いりんごみたいなものよ。長い枝の先に突き刺して 
---- こんなふうに振り回すの。そうすると実が何キロも飛んでいくのよ。
ゆうべはラザールの顔にあたっったもんで、かんかんに怒ってしまったわ」
  
    
マリゴールドの魔法』 第10章 逃げ出した王女  田中とき子訳 篠崎書林 

"Let's go and fire potato-balls. Its great fun.""I don't know how to fire potato-balls. What are they?"
"I'll show you--little tiny things like small green apples. You stick one on the point of a long switch--and whirl it--so--and the potato ball flies through the air for miles.
I hit Lazarre in the face with one last night. My, but he was mad."
  

 
 じゃがいもの実。 ナス科のトマトの実にそっくり。
 
これはトマトの葉。水を保つため茎や葉に毛が生えている。
おやおや。主人公のマリゴールドの家に突然現れ、いたずらのし放題のバーバラと、バーバラにそそのかされ、つい乗ってしまったマリゴールド。実はバーバラはカナダの宗主国イギリスの貴族の娘でした。
木苺を摘み、野原を突っ切ってセンダングサの種(引っ付き虫ですね)を付けてしまい、あげくにカラスムギ畑を分け入って進み、 作物を台無しにしてしまう二人の子供たち。さらにジャガイモ畑の中で暴れまわる・・・と傍若無人のありさま。この王女様のわがまま放題には、困ったものです。でも、私はこういう子供が大好き。
むかしお転婆だった私にはよくわかる心境です。悪いことをするとき、心が弾んで面白さにわれを忘れます。

原作のなかにもこんな記述が:
「どうして、あなたはそんな悪いことばかりするんですか?」(大きい祖母の問いに)
   ・・・・ 「だって、いいことよりか面白いんだもの。」と答える主人公のマリゴールド。
そうだそうだ。当たり前だ! これこそ正しい子供の姿だ、と私。
ただし、大きい祖母(曾祖母)は長く生きてきただけに人間に対する洞察力があります。

・・・「マリゴールド、したいことは何でもおやり
---あとで鏡に映る自分の顔をまともに見られさえすればね」 。良心に任せる、この突き放すような言葉で子供の心を 繰る。ここに宗教の力を感じます。

この「枝の先に突き刺して、実を飛ばす」ことを子供のころ同じようにやりました。古代ローマ軍の投石器と同じく、枝の先はカタパルト(発射機)の役目をするのですね。
この遊びが展開していき、現在のハンマー投げになりましたとさ。?
王女に取ってマリーゴルドと遊び呆けた一日は、あの映画「ローマの休日」でのアン王女の一日に匹敵したことでしょう。
この場面は『エミリーは登る』の中に出てくる「王様をおしおきした女」のエピソードを彷彿とさせます。

作者モンゴメリが、厳しい祖母の監視の下で、「行儀のよい女の子らしさ」に押し込められ、自由に遊ぶことができず、旧家出身のプライドとのはざまに立ってやるせない思い をしていた子供時代を顧み、それをマリゴールドに重ねているように思います。
不思議な感覚を覚えました。
この『マリゴールドの魔法』を読んでいると、なぜか小説の背景に作者モンゴメリがひっそり佇んでいるような感覚を・・・自由に子供らしく遊べなかった時間を、再構築しているかのような感覚を。 
                                                                                                     (2018.2.7)