4年ぶりの海の外 アオザイの国ベトナムへ

世界遺産ハロン湾に浮かぶ Vinpearl
Hotel 右は国旗。赤は社会主義で戦士の血の色。黄色は五つの階層の団結を表わす。
ようやく外へ
いつだったのか、最近海外に出かけたのは。コロナ禍に陥る前の2019年9月以来だから、とじこもりも4年半になる。
外に出ようと思い付いたのが、今年に入ってから。ネパールの白い山を見るツアー(2月催行)に申し込みすっかりその気になっていたのに、あえなく催行中止になってしまった。
次に選んだのが、「ベトナム・ハノイと世界遺産ハロン湾」のツアー。ネパール再再訪はこの秋にしよう。
ツアーは成田からベトナム北部の街ハノイに飛び、世界遺産のハロン湾をクルーズしてハノイ市の歴史を学ぶというもの。
旅程 (コンパクトだが、余裕のある旅程だった)
1日目 2月25日
成田発18:30 ANA直行便でハノイへ 着後ホテルへ
2日目 2月26日
ホテル発9:30 ハロン湾へ(約180km/約4時間) 14:00 ホテルにチェックイン 2連泊
3日目 2月27日
ホテル発9:00 貸切船で世界遺産ハロン湾クルーズ(約6時間)ハロン湾最大の洞窟探検、ティートップ島上陸。
ホテル着16:00
4日目 2月28日
ホテル発9:00 ハノイへ(約180km/約4時間)
午後:ハノイ市内観光(ホーチミン廟、一柱寺、世界遺産タンロン城遺跡)◎旧市街散策、◎ホアンキエム湖散策、
民芸品店またはスーパーマーケット(約30分)大型ショッピングモールにて自由夕食
23:00〜翌00:30 ハノイ発(ANA直行便)
5日目 帰国 2月29日
とんでもない速さで雑踏をぶっ飛ばすバス
旅程は、空港—市内ホテル---バスで高速を走る--ホテル着---ハロン湾クルーズという忙しさ。現地ガイドさんにはそれが
災いしたのか、あるいは外国人にはベトナムの日常生活など興味がないとでも思いこんだのか、バスの窓から見える景色の説明がなかった。これは本当に残念
だ。私が外に出る一番の理由は、経済や社会のあり方を知り、その国で一般庶民がどのような生活をしているのかを知りたいからなのに。
おおむねその国の恥部に当たる部分は紹介されないことが多いが、それは違う。隠したい部分を含めたのがその国の現実なのだから。
全体の雰囲気は日本の1970年代からの高度成長期に似ている。経済発展に社会インフラが追いついていない。朝夕の交通渋滞はひどい。(これはエジプト、大連、タイなどと同じ)
車とバイク
はすれすれに走っている、命からがら。
ベトナムでは、今が田植えの時期に当たるはず。水を張った田んぼに5cmほどの稲の苗がそよいでいて、あの独特の麦わら帽子を被った農民が見回りをしている様子を、後ろへ後へと流れる車窓からじっと見ていた。
瑞穂の国から来た人間としては、とても懐かしく心に残る景色だった。
田植えの後の田んぼ
デノミネーションしてください。
さて大事なお金の話。1 ベトナム ドン =0.0061日本 円 3月5日現在
市中に出回っているのは紙幣だけ。それも額が大きく100000ドン、200000ドン、500000ドンとゼロの数を数えていると目がチカチカしてくるくらいだ。単純にゼロを2個取り残りを2で割ると大体の日本円になる。それはそうでも数字に弱い私には面倒だし、すぐ忘れてしまう。500000ドンは2500円相当ということ。こんなに通貨金額の桁数表示が大きいと、日常の経済活動に支障をきたすのではない?
「ガイドさん。お願いだからお国はぜひデノミしてください。そういう動きはありませんか」と尋ねる。「現に店舗での値段の表記は後ろの二つのゼロを取ってあるじゃないですか?」
「う〜ん、国会でもこの件は審議されたことがあるのですが、いまだに実現しません」との返事。単純にデノミネーションを行ってしまうと、コストがかかるほか、それをショックに経済活動が混乱することもあるからだろう。
* ベトナムの通貨ドンは。日本の銅から来ているという話。過去に日越貿易で日本から銅を輸出した歴史がある。経済活動に大きな影響があったらしく、いまも通貨単位の呼称に「銅→ドン」が使われているようだ。親近感を抱くが、それにしてもゼロが多すぎる。
紙幣ばかりなので財布がとても軽い。いつものポイントカードも入っていないしね。
画像はホーチ・ミン
600円くらい 1200円くらい 3000円くらい
どんな国民性?
たった5日間では観察しようもないが、初見では「真面目、努力家、シャイ」。もっとも軟らかい心を隠すための心の動きもあるだろうが。市中の店では商魂たくましいが、どこか遠慮がちな部分を感じることが多かった。
これはゼノフォビア?
朝夕のバイク通勤のラッシュの混雑ぶりと、それを苦にすることもない若者たちの流れるような動きには、ただ感心するばかりだった。
国民の平均年齢は31歳で全人口の6割が30歳以下と驚く若さ!
どこか、高度成長期の日本に似ている。日本の強みは「国民一人一人の、能力の高さと豊富な水資源」と考えるが、現在のベトナムには、日本のその強みを彷彿とさせる
ものがある。今日よりも明日がもっといい日になる、と信じられたあの時代の、我われ庶民の働き方を思い出す。
過去の度重なる戦争----対中国の戦い、日本が侵攻してきた、隣国カンボジアへの侵攻、何より国難だったベトナム戦争をくぐり抜けてきた人間の持つ、虐げられた歴史から学んだ
、静かだけどしたたかで強靭な精神を感じる。
集団的記憶があるかどうか分からないが、戦争が生活の一部だった時代を忘れてはいない。苦悩が精神を強化する。そのように感じた。

空港で係員が機体から出てくる荷物を、受け取りやすくするため、持ち手の方向を変えていた。
こんなことは日本以外で見たことがない。気遣いの出来る人たち。
海鮮が美味しい
VINグループ(ベトナムの財閥企業・コングロマリット)が、金に物を言わせて建設したホテルの真ん前に、使い古した小舟が並んでいる。
漁をしているようだた。並んでいるこの新旧の対比が面白い。アサリ、エビ、シャコ、タコなどが取れるらしい。食事に出てきた海鮮はどれも新鮮でおいしい。
海底を浚ってカニ、エビなどを漁る。
アサリ、ハナグリ、エビ、マテ貝、空芯菜など
泊まったホテルは,ハノイを中心に事業展開をする財閥が経営するVinpearl
Hotel.
上に書いたVINグループはコングロマリット。不動産、ホテル、自動車、農業、遊園地、小売り、病院、教育とその事業の展開先は多彩だ。そもそもこの財閥は
、創業者が20世紀後半に旧ソ連ウクライナで食品会社を立ち上げたことから始まっている。
創業者は帰国後、社会主義の国でありながら経済開放政策を採る政府と連携し、今やVINは巨大な企業グループとして発展している。
ちなみにこのホテルには、連絡船に乗って行き来する。水や電気などは海底に敷設されたパイプや電線で送られているようだ。ではトイレなどの廃水はどこへ? 海に流しているはずはないから、これも海底パイプで本土へ送っているのか
ベランダから海が広がる。
日本で売られているバナベイエビの養殖池

揚げ春巻き キクラゲ入り 美味!
一番おいしかったのは
二日目の夜、ほかのメンバーは対岸に並ぶ屋台に出かけたが、体力を温存する我われはホテルに残った。ルームサービスに頼んだのが、海鮮ピザと生春巻き。
まっこと美味!
ピザ(イカ、タコ、エビに絶品のトマトソース)は今まで食べた中で一番の美味しさ!春巻きの皮と新鮮な海鮮の取り合わせも絶妙だった。この二皿で日本円の2300円。
日本から持参したお気に入りのウィスキーでいい気分だ。
もう一つ、ハロン湾クルーズの小さい船の、粗末な台所で拵えた、キクラゲ入りの揚げ春巻きのパリッとした美味しさときたら、今も思い出すくらい。
辛い唐辛子はやはり辛い
旧正月(テト)の後なので、あちこちに金柑や仏手柑などの飾り物が残っている。ベトナム人の信仰心を感じる。
招き猫が福を招いている。
https://youtu.be/WXbNbDDnSfo お釈迦様と祖先の霊を祭ってある。
ベトナム語の難しさ
1000年以上もの間、ベトナムは中国の支配を受けていて、その間ベトナムの公式の文字は漢字だった。
先見の明があったというべきか、15世紀には漢字は多数民族であるキン族(ベト族)の母語が公用語としてローマ字化されている。
(このいきさつは韓国のハングルに似ている。)
ベトナム語の単語の多くは、漢字をベトナム式に読み下したもので、日本語の音読みに近いらしい。ベトナム語は日本人に学習しやすい外国語と言われるがどうだろうか。
難しいのは六つもある声調。音の上り下がりが変化すると、言葉の意味も変わってくる。まるで小鳥のさえずりのように、ころころと空を舞うような音に聞こえてくる。喧騒のただ中にいても穏やかな声の連なりに聞こえてくるのはそのせいだろう
。
特徴的なのは、単語の変化がないこと。英語と同じく「主語+動詞+目的語」の形を取る。では過去や未来を表現するには?
----それ専用の単語を追加することで意味をなす。「私する+過去」で「私がした」の意味になるらしい。
ここで大きく問題になるのは、日本語の助詞に当たるものが無いこと。文を繋ぎ意味を補強するために働く助詞がないことだ。しばしばガイドさんが「が」と「は」や、その他の助詞の使い方を間違い、今後の予定が前後して意味が取れないことがあった。
最終日の自由時間にガイドさんと話す時間があった。どうも助詞が無いことが、日本語学習者にとっては致命的な難しさになるらしい。仕事と三人の子供を抱えて勉強する時間がない----ならばNHKのニュースや発音がはっきりしたドラマなどを見て、意味を取りながら同時にアウトプットしてみたらどうか、などと進言?した。入ってきた日本語を0.5秒遅れで発音して自分の耳で聞いてみたらどうか。
身体に叩きこんだら、反射的に出てくるかもしれない。
ついでに、彼が始めたベトナム・ハノイの株式市場について聞かされた。面白い。石油株に投資しているけれど今は少し下がっている---株式投資は忍耐そのものよ、私がいまハノイで買うとしたら「ダイキン」かなぁ、
ベトナム南部とグローバルサウスに冷房専用機を売り込むはずだからね。などと話した。
肝心の「ハロン湾クルーズ」 曇っていて、綺麗な写真が撮れなかった。
ツアー会社のHPから拝借しました。
小舟を船に横付けして、果物や魚を売りに来てくれる。見ているだけで楽しい。商売はしっかり者の奥さんで成り立っている。

ハマグリ、タコ、スズキ、エビ、カレイ、シャコ(大きい、日本の倍)、マテ貝など。みな活きている。

スイカ、ライチ、パイナップル、バナナ、瓜、マンゴー、それにドリアン!
そんれほど安くはない。でも旅情がある。
本物の生のライチが10個で350円くらい。高い?安い?美味しければ良し!
ベトナムは長く戦争状態にあった。
長く中国の統治をうけ文化の影響が大きい。その後1885年からフランス領インドシナの一部になった。第二次世界大戦中には日本の侵略も受けている。インドシナ戦争(1945-54年)でフランス支配は終結。ホーチミンと独立同盟が「ベトナム民主共和国」を樹立し、独立宣言する。
その後ベトナム民主共和国(北ベトナム)建国後も、南部に勢力を残すフランス(南ベトナム)とホーチミン氏の北ベトナムとの間に争いが起きた。(第一次インドシナ戦争)フランスが敗北したが、この戦争をきっかけにベトナムは北と南に分かれることになった。
この南北に分断されたベトナムを統一しようと、南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムの支援による)との間に内戦が始まった。
1975年、サイゴンの大統領官邸に戦車が突入し、ベトナム戦争は終結し、新生ベトナム社会主義共和国が建国された。
解放軍がサイゴンを占領したのち、旧南ベトナム政権に近い立場にあり、社会主義国の政体を受け入れられない南ベトナム人は国外へ脱出した。難民として小舟に乗って漂流し、日本の島に到着したベトナム人もいたと聞いている。南ベトナムの国民は、北ベトナム政府に脅威を覚え、決して歓迎していなかったとひそかに伝わっているようだ。
ここら辺は思想や政権での立場、経済状況によって行動様態が違うだろう。旧体制分子をどう扱うか、これは歴史にたびたび見られる話だ。
(いつか従妹の子供(女性)が南ベトナム人と結婚した話を書きたい。1970年代の終わりごろのことだ)
ベトナム統一の主導は北か南か。インドシナの共産化を押さえるべく資本主義国アメリカが介入し、南ベトナムを支援。北ベトナムとベトナム解放戦線が協力して「アメリカ軍+南ベトナム開放勢力」が戦う----これが私の世代の記憶に残り、影響されてきた「ベトナム戦争」。(1955年から1975年)
約10年続いたこの戦争は我われ世代には記憶に新しく、ベトナム訪問に際しある先入観を持つきっかけとなり、現代とのギャップに驚くことになる。
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Ti
Top将軍
支援したロシアの将軍 ハロン湾の島に立っている。
大乗仏教を信じる国民は、かつての恩を忘れていない。
若者にとっては古い話なのか、だれもこの銅像の敬意を払っているように見えない。
集合場所として利用されているようだ。
ハロン湾は真珠の養殖で知られている。
日本の真珠に比べてやや色味が濃い。
買って買ってと迫られるが、身辺整理をしている身としては、どうしようもなかった。
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D-67地下室
ベトナム戦争時の作戦司令部 地下にある。
ベトナム王朝の都、タンロン城の中にあるD-67地下室。
ベトナム戦争時の作戦司令部。急な階段を降りると地下室が広がり、そこは原爆にも耐えられる構造になっていて、今は閉じられているが各地に伸びるトンネルが掘られていた
らしい。壁にはホーチミンの写真が掲げられている。
戦争博物館
前
反アメリカ戦争の司令部の前で、アイスクリームを舐めるアメリカ人の観光客。かつてこの国を襲って多数の犠牲者を出した。その反アメリカ司令部の前でアイスを舐める!
複雑な気持ちだ。我われがパールハーバーで不遜な態度を取るのに似ているか。
・ミュージカル「ミス・サイゴン」あの蝶々夫人と重なる。
アメリカ兵とアジア女性の恋、占領者と被占領者との恋。
お札の顔にもなっているホーチミンとは?
ベトナムの独立運動の指導者で、1960年代のベトナム戦争時の北ベトナムを率いて勝利に導いたことから、現代のベトナムで尊敬、尊崇されている指導者。
1911年、船乗りとしてヨーロッパに渡り、
第二次大戦中は抗日解放戦を指導。1920年フランス共産党の創設に参加後はソ連・中国で活動。1930年、インドシナ共産党を結成。1945年にベトナム民主共和国の建国を宣言。初代大統領となり、インドシナ戦争・ベトナム戦争を戦い抜き、独自の社会主義建設を指導した。1941年、ベトナム独立同盟(ベトミン)を組織し1919年のヴェルサイユ講和会議が開催されると、ベトナムのフランスからの自由を訴えた。現在の国家の生みの親でもある精神的な支柱。
(1890〜1969)
ホーチミン霊廟
ホーチミンが独立宣言を行なったバーディン広場に建てられていて、森厳な雰囲気が漂う。1945年9月2日宣言。
ホーチミン霊廟の左右に書かれている文言は、
「Nuoc Cong Hoa Xa Hoi Chu Nghia Viet Nam Muon Nam!」
「ベトナム社会主義国万歳!」
「Chu Tich Ho Chi Minh Vi Dai Song Mai Trong Su Nghiep Cua Chung
Ta!」
「偉大なるホーチミン主席は、永遠に我々の中で生きている!」
このあと、「独立と自由ほど尊いものはない」と続く。
まず独立があって、民にはその後政体のなかでの自由がある。当然だけど、ある制限があるということ。
衛兵交代シーン https://youtu.be/_3GCb7Ks2-A
ここでウッカリ黄色い線から1メートル入り込んで、「ピー」と警告の笛を鳴らされてしまった。あほやん、私。
こっそり相棒と話したこと:
このホーチミンに対する絶対的な崇拝の念は、いつまで続くのかな。ハノイ市はアメリカの支援を受けていた
こともあるね。南北分断されていたベトナムだけど、このホーチミンをベトナム人民の精神的なよりどころにすることで、精神的な国民支配を行なっていない?
一個人を崇拝する、これって時代が移るに連れ、建国の精神から民の心が乖離していかないか?(こんなことを喋ったら危ないアブナイかもしれない)
1978-79年、ベトナム人によるカンボジア侵攻----虐殺行為で知られるポルポトからカンボジア国民を守ったとされるが、長期間の残留によって、世界の非難を受け、西側諸国の援助は中止された。中国はベトナムに侵攻するも(中越戦争)ベトナム戦争時代に培った戦略やロシアから供与された武器によって中国を撃破。ここらへんでベトナムのイメージが一変する。つまりアメリカ帝国主義と戦って勝利を収めた善玉から、軍を派遣する国へと。制御できない国に変化したとの認識が広がった。そして来た経済成長の時代よ。
今も隣国カンボジアをは関係が良くなくて、カンボジアで「ベトナムから来た」と言うと嫌われると。
その後ソ連は崩壊し、東西冷戦は終結した。(1991年) ベトナムは市場開放政策へと転換する。
ベトナムが取った開放政策(ドイモイ政策1986年)によって共産主義を踏襲しつつも経済活動は開放へ。現在は見かけはまるで資本主義の国に見える。
しかしベトナム共産党の一党独裁体制は続き、社会主義市場経済とは相容れぬ言葉が連なっているのがどうも腑に落ちない。社会主義国家でありながら、自由経済を認めた
ことによって資本家が権力、金、情報、文化資産などを手中にする。経済は二極化し社会は分断されていった。----これは今の資本主義の国・日本と同じではないか。
「社会主義指向型発展」って何なのだろうか。共同、平等の理念で国、民ともに発展するということか。今の中国の考え方に似ているのか。
ベトナムの人口は1億人近く、一人当たりのGDPは4089USD (2022年)一院制で当然共産党のみ、
一人当たりの平均賃金は月平均24000円くらい。若い国だ。
国民健康保険の不備
ガイドさんは「歯を一本抜くのに日本円で2万円くらいかかった」とのこと。いわゆる日本の国民健康保険制度は完備していない。社会保険制度が充実するのはまだまだ時間がかかるようだ。
経済発展に追いつけない国民が多数で、社会が分断されている。労働者の流出、輸出に繋がっている。技能実習生として働く先は、韓国、日本など。海外からの送金が下支えするベトナム経済。
(実習生として受け入れる日本の政策にも関わる問題だが、あまりに問題が複雑で不勉強なので今は物が言えない。)
中国資本や韓国資本の流入が市中にめだった。その中で日本のODA---援助国の自助努力で発展を願っている---が資金を貸与してインフラ整備に力を貸しているのを聞き、目を見張る思いだった。
土地は国のものという前提での施策がなされ、土地は使用権を売買されている。急激な経済発展で、都市へ人口
が集中し地価・不動産が高騰している。交通機関の混乱は続いているが、現在市の中心で地下鉄建設が始まった。
これで交通渋滞が緩和されるかもしれない。10年後のベトナムを見てみたい。
帰国して
たった5日の訪ベトナムだったが、さまざま考えさせられた。日本アズアンンバーワンなどと思いあがっていた時代を知る私の世代はともあれ、現在の若者は「日本が一流国」だとは考えていない。
日本には経済成長はもうないかもしれない。人口減少期に入った。内向きの社会では税収は減り医療、年金支出が増えるだろう。
長い戦いの後、ベトナム解放民族戦線はアメリカに勝利した。なぜか。旅の前に友人から現地でその理由を探って欲しい、との申し入れがあったが、この小さな国が大国アメリカに勝利した理由など、専門家でない私などでは考えようもない。アメリカの徴兵制度による派兵に反対があり、アメリカ国内の反対も助したようだけど。
ベトナムの自然は美しく豊かだ。
濃密な生命が溢れている。そしてそれは人間の営みが集約されている市街地にも見つけられる。
たくましい人たち。
ベトナムが大国アメリカを屈服させたのは、その自然の存在があったからではないかと思わせられた。米、果物、野菜、魚など
戦禍の時代があったとはいえ、豊かな食糧の裏打ちがあり、自然の中で生きる人々のあの「楽天性」がおのおのを助けたのかもしれない。帰国して10日、じわじわとこんな気分
が広がってきている。
日本は、後方支援としてベトナム戦争に加担し、ベトナム特需に潤った時代があった。同じアジア人の流した血のうえに繁栄が築かれた----搾取の現実があるのに目をつむり、国としての私欲に走ったという疚しさを感じる。
じつのところ、落ち目とは言え先進国の日本と、発展途上にあり経済格差のある、たとえばベトナムを旅することには、違和感を感じていた。お金でほっぺたを引っぱたくようなことをしたくないのだ。
日本人観光客が落とす円が、経済活性化に寄与している?そうだけど。
贅沢にもベトナムの平均月収に近い金額のホテルに泊まり、土地の人に取っては日常生活で考えられいほどの消費をしている我われ、あるいはワタシ。必要はないけど、つい罪の意識を持ってしまいがちなのだ。
購買力平価が同等な国を旅するときには、費用が掛かるが精神は安定している。つまり相手の100円と我われの100円が同等の価値を持つ時、対等な関係を築けると考えるから。相手の労働を尊重したい----しんから貧乏性のワタシです。
三友花 キョウチクトウ科)

フイリソシンカ マメ科 属名 ハカマカズラ 葉っぱがハート形なのです。
2024.3.10 記 |