栃の実  栃の実のみのる国------ 防人の歌と東歌     下野はわれらがうぶすな
    

                                2016.8.21 更新    


 
 栃の実は地霊のまなこ 
 

大化の改新(645年)以後、律令制度の構築が進んだ大和の国は、制度に従って地方行政区(令制国)に区分されました。平安中期に編纂された延喜式によると、生産力と政治・軍事上の重要さにより「大・上・中・小(下)」の四段階に分けられています。下野の国はそのなかで、「上の国」と制定されています。
今回は、われらがまほろば「下野の国」に敬意を表し、ゆかりの歌を集めてみました。題詞は略しています。


 【 
防人歌 (さきもりのうた) 】  
 
防人とは、七世紀から九世紀初頭まで、主に東国から徴発、派遣され九州の防衛に当たった兵士を言います。
制度の始まりは「白(はく)村江(そんこう)の戦(663年)」の大敗から。
朝鮮南西部の錦江河口付近で、「日本軍と百済復興軍」が「唐・新羅の連合軍」と戦を交え、日本側は大敗を喫しました。中国、朝鮮からの来襲を恐れた中大兄皇子(のちの天智天皇)は、防人と烽(のろし)の制度を置き、兵士を筑紫、壱岐、対馬に常駐させ北九州の防衛に当たらせようとします。

約三千人ともいわれた兵士は主に東国から徴発され、部領使(ぶりょうし・ことりのつかい)の引率で陸路をたどり、難波に集結したのち、海路九州へ下っていきました。防人の任期は三年とされていても、兵士の補給は難しく、停止や再開を繰り返しながら、九世紀初めまでこの防人制は続きました。
主に東国から兵士が選ばれたのは、実直で働き者だったこともありますが、東国の豪族が朝廷の「伴造・国造」として支配下にあったからです。--- 管理しやすい地方だったのです。

妻や恋人、父母などの家族との別離が東国語で歌い上げられ、運命を悲しみ、故郷を出立せざるを得ない悲憤を述べた内容が多く、難波に着くまでに詠まれた歌がほとんどですが、なかには難波港を出航するおりの歌も見られます。防人の歌は主に巻二十に収められ、ぬくもりのある東国語が生き生きと迫ってきます。

防人の歌も次に述べる東歌も、ありきたりの言葉を使わず、具体的なイメージを提示し人の心をつかみます。和歌は和すもの。もともと音声言語だったはず。音声はやがて音楽へと変容するでしょう。異郷で故郷を偲び、集まっては方言で話し、歌う --- 郷愁を歌に重ねる防人たちの団結力を強めるのは、言葉の共有です。

では誰がこれらの歌群を記録したのか。 幸いなことに、記録魔の大伴家持が兵部少輔の任にありました。
天平十八年(746年)、越中守として赴任していた大伴家持は五年余りの在任期間を経て帰京し、その後兵部少輔に任じられました。家持は防人を検校するため難波に赴き、防人から歌の提出を求め、半数近い歌 を「拙劣」として削ったものの、八十首あまりを採集記録したのでした。

防人の歌に潜む土着の暮らしや人間性に衝撃を受けた家持は、おおいに感興を覚え歌心を刺激されました。しかし、政治のなかに組み込まれた表現者であった家持は、大伴氏の氏上として政治の流れに抗えず、因幡の国府で新年を寿ぐ詠んだ歌(天平宝字3年・759年)を最後に、詠歌の記録を残さない政治家としてその後の人生を生きたのです。
参考までに、記録に残る家持最後の歌 は: 新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事  巻20-4516

 今日よりは 顧(かへり)見なくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ(いでたつ)吾(われ)は  
                       今奉部与曾(いままつりべのよそ)布(ふ)  巻20-4373  

(醜(しこ)とは汚らわしく醜悪だとの意味。強い意味があり人間を圧倒する力を持つに転じます。御楯は天皇の警護の役。第二次大戦時、忠君愛国心を賛美し、戦争遂行を鼓吹する歌として引用されたことは記憶に深く残ります。人間は与えられた道徳に従順でそれから逃れることは難しく、他人の枠組みに自分を当てはめて考えがちです。『万葉集』のこの歌が、強い印象を残すがゆえにたどった運命でした。第二次世界大戦中、国策に飲み込まれ満州に渡った満蒙開拓団の、終戦前後の酷な運命と重なります)
参考までに:  海行かば水漬く屍山行かば草生す----(長歌)  大伴家持 巻18-4094

 天地の 神を祈りて幸(さつ)矢(や)貫(ぬ)き 筑紫の島を指して行く吾(われ)は      
                           太田部(おおたべ)荒(あら)耳(みみ)   巻20-4374
(天地の神に航海の無事、あるいはつつがなき帰還を祈る、「幸矢貫く」は、神のご加護を祈る呪的な行動。)

 松の木(け)の 並みたる見れば家人(いはびと)の 吾(われ)を見送ると立たりしもころ    
                                  物部真島    巻20-4375
(この松は、道中の松か難波の津当たりの松か。あるいは待つか。松の「け」は、「き」の訛り。「立たりしもころ」の立たりは立てりの訛り。「もころ」は「〜のようだ」の意味。何を見ても故郷の情景が目に浮かんできたのでしょう。)

旅(たび)行(ゆ)きに 行くと知らずて母父(あもしし)に 言(こと)申(まを)さずて今ぞ悔しけ     
                             寒川郡川上臣老(おゆ)  巻20-4376
(「おもしし」は「おもちち」の訛り。両親を呼ぶのに、「父母ちちはは」と「母父おもちち、あもちち」の二通りがありますが、この「母父」は、私有財産制を基盤とする父系社会より古い母系社会での呼称。「悔しけ」は「くやしき」の訛り。寒川の郡とは現在の下都賀郡と小山市あたり。)

 母刀(あもと)自(じ)も 玉にもがもや頂(いただ)きて 角(み)髪(づら)の中に合へ纏(ま)かまくも        
                             津守小黒栖(をぐろす)    巻20-4377
(角髪(みずら)は、髪を左右に分けて耳のところで束ねる髪型。母が玉であるならば、高く捧げて髪に巻き付けるものを。訛りのある東国語 だからこそ、身を切られる感情をより強く表現できる---文体とは不思議なものです。)

 月日(つくひ)やは 過ぐは往(ゆ)けども母父(あもしし)が 玉の姿は忘れ為(せ)なふも     
                           都賀郡中臣部足(たる)国(くに)  巻20-4378
(こうやって月日が過ぎていくものの、尊い母父の姿は忘れられない。 「わすれせなふも」の「なふ」は、東国特有の否定語。)

 白波の 寄そる浜辺に別れなば いともすべなみ八遍(やたび)袖振る   
              利郡大舎人部祢(あしかがのこほりおおとねりべのね)麻呂(まろ)  巻20-4379
(袖を振るのは、別れを惜しむ行動。はるばる難波まで来た。ここから遥かに西国に向かっていく。ますます故郷が、家族が遠くなっていく、ああ、どうしようもない。せめてせめて、何度も袖を振って思いを伝えよう) 

 難波門(なにはと)を 榜(こ)ぎ出て見れば神さぶる 生駒高嶺に雲ぞたなびく   
                梁田(やなだ)郡(こほり)太田部三(おおたべのみ)成(なり) 巻20-4380

(難波の港を漕ぎ出てみると、神々しい生駒山に雲がたなびいているのが見える。出航前でありながら確定的に詠んでいるのは、言葉の力を信じ、航海の無事を祈る思いから。『日本書紀』の神武天皇の東征や、役行者の鬼退治伝説が心をよぎったことでしょう。当時は生駒山西麓まで潟湖が広がり、その向こうに聖なる山・生駒山(642m)が横たわっていたはずです。)難波の港は、現在の大阪港かあるいはその南に位置する堺港(大伴の津)か。)    
          参考までに :
 天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ  柿本人麻呂 巻3-255

 国々の 防人集ひ船(ふな)乗りて 別(わか)るを見ればいともすべなし   
         河内郡(かわちのこほり)神(かみ)麻績部(をみべ)鳥(どり)麻呂(まろ)  巻20-4381
 (いともすべなし。集いも別れも、すべなく過ぎるのが人の世の常。)

 布(ふ)多(た)ほがみ 悪(あ)しけ人なりあた病(ゆまひ) 我がする時に防人にさす   
                            那須郡大伴部広成  巻20-4382

(布多ほがみはなんという悪い奴だ。俺が急病になっているときに防人に派遣させるとは。防人の歌に珍しく、周囲の笑いを取り、対象を揶揄している歌。やや守りの固い性格の持ち主に思える那須郡の人間が、心中を吐露する歌を残してくれたことと、このような反体制的とも受け取れる歌を『万葉集』に載せた編纂者の懐の深さに感慨を覚えます。那珂川町なす風土記の丘資料館の入口左手の丘の辛夷の木の下に、この歌の万葉歌碑があります。)

 津の国の 海の渚に船装(ふなよそ)ひ 発(た)し出も時に母(あも)が目もがも     
             塩谷郡(しおやこほり)丈部(たけべの)足人(たるひと)   巻20-4383
(いざ西国へ出立の日、思うのは母の顔。母への思いを素直に表すのがごく普通だった母系社会の歌がまぶしい。)


 【 
東歌(あずまうた)】陸奥 下野、上総、下総、常陸、信濃、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵などの国の歌。

【東歌とは】遠江、信濃の国より東、陸奥までの範囲で、東国民衆の生活感情を反映し、民謡を基盤として形成された東国の歌。『万葉集』巻十四に二百二十九首収録されています。
神武東征、更に倭健命の東征と、日本建国の礎となったと伝わる神話に惹起された「東の国」への深遠なる興味や寄せる心---「まつろわぬ国・鄙」の地に対するイメージの顕在化。背景にこれらがあり「東歌」と括られて記録されたのか。 誰がどのような経路でこの定型詩の歌群を集め編集したのか判然とせず、その成立過程に興味が湧きます。防人の歌が、故郷への思いや家族愛を高らかに詠み上げているのに対し、東歌は恋の歌が中心です。当時の都(奈良)の歌文化は、男女の愛が中心だったことも編集方針に影響しているのかもしれません。

ではなぜ定型詩ばかりなのでしょうか。東歌が口誦、民謡詩であるならば、破調の歌が残されていても不思議ではありません。中央の文化を吸収する過程で持ち込まれた短歌形式が、人々の間で受容され周辺に波及して行き、それを受け入れるだけの文化の成熟がすでにみられたからだと考えます。

労働歌は生活の中に見出す希望を歌います。 労働体験に裏打ちされた笑いの裏に潜むひそかな悲しみや、共同体に在る安心感を感じ取ってみましょう。東歌の特質は、明るさや滑稽さ、座興性、集団性、歌謡性、土着性であり、人々の暮らしの原点を歌い上げるものです。調べは民謡調で軽やか、広く愛誦されたことでしょう。

内容が似た歌が多く、詞句を入れ替えると、歌われた場所や男女の性差を超越することができるのが東歌。個人的体験を詠んだ歌よりも、より広がりを見せてくれるのです。
東国の言葉(方言)で書かれていて、そのまま表記するため、原文は一音一字の音仮名を使ってあります。

 下つ毛野 美可母(みかも)の山の小楢のす ま妙(ぐは)し児ろは誰(た)が笥(け)か持たむ  
                                        巻14-3424
       原文: 之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟

美可母の山とは、栃木県佐野市にある三毳の山(229m))。古代は神の山と信じられていました。春は片栗の花、二輪草、桜、つつじが咲き乱れ、遅れじと薄みどりの小楢の芽吹きが林を彩る里山です。
笥(け)とは食器。「笥を持つ」とは結婚することを意味し、万葉びとは、笥を魂の宿る器だと考えていました。今もめいめいが飯茶碗を持つことに、この時代の思いが残されています。「小楢のす」は、「〜のように」、「〜になる」の意を表わす東国語の形。「ま妙し児ろ」とは「あでやかで、美しい娘さん」。

(三毳の山に、小楢の新芽が萌える、垂れ下がった花が風に揺れ、やがて銀白色を帯びた葉が春の日に輝く。若葉を通して降り注ぐ陽の光のように、明るくみずみずしく成長したあの娘よ。思いを寄せている「ま妙し児ろ」が誰と結ばれるのか----。 )
 若者の純な気持ちが伝わってくる歌です。ただしこの歌は「あの児は可愛いな」と輪唱する労働歌、民謡だと考えるほうが、事実に近いでしょう。 

コナラはブナ科の落葉高木。三十メートルにも生長する大楢(ははそ、みずなら)に対しての名前です。  
なお「ナラ」は現在のコナラの他に、姿や形が似通ったブナ科のミズナラやクヌギなどブナ科の植物の総称としても使われていました。さらにはコナラが「ナラ・楢・奈良」にと変化して行き、「奈良」の語源は、この「コナラが多く生える地」から。あるいは渡来人が多い時代で、韓国語の「国(なら)」を意味したと言う説もあるようです。 
   参考までに: 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る   有馬皇子 巻2-142

 下つ毛野 安蘇(あそ)の川原(かはら)よ石踏まず 空ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心告(の)れ  巻14-3425

(安蘇はもとの栃木県安蘇郡、現在の佐野市当たりの地。安蘇の川原は、渡良瀬川上流の佐野市秋山川か。「空ゆと来ぬよ」は 恋人に一刻も早く会いたくて宙を飛ぶようにやってきたの意。 「汝が心告れ」、「告る」は重大な内容を打ち明ける意味、現在の若者言葉の「こくる」と同じか。 ほとばしるようにおのれの情熱を語り、相手の本心を聞き出す言葉が続きます。ここまで迫られるともう逃れられません。)

 安可(あか)見山(みやま) 草根刈り除(そ)け逢はすがへ 争ふ妹しあやに愛(かな)しも 巻14-3479
 
(佐野市赤見山付近の歌謡。嫌がるこの娘が無性に可愛い。逢わないでいられようか。いつわりの無い形で行動に起こす、この突き抜けた恋情よ。「草根刈り徐け」の「そけ」 は除くの意味。「逢はすがへ」の「がへ」とは、「〜するものか」の意味の反語的決意を表す東国語。)

 
【 追記 】
 次の二首には「上つ毛野」とありますが、栃木県で詠まれた歌と考えられるので追記します。古く「毛野国・けのくに」が二つに分けられた上つ毛野(上野国)と下つ毛野(下野国)については、地勢の影響で境界が移動した歴史があり、更には誤記されたという説もあるからです。

上(かみ)つ毛(け)野(の) 安蘇(あそ)の真(ま)麻(そ)群(むら)かき抱(むだ)き 寝(ぬ)れど飽かぬを何(あ)どか吾(あ)がせむ                                                                                                       
  原文: 可美都氣努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴禮杼安加奴乎 安杼加安我世牟  巻14 3404

(思う心だけでなく、肉体的な接触を求めるたくましさ。強烈な生への希求。観念が先走ることは無い。「かきむだき」は抱く、いだく、うだくの古い形。「あどかあどせむ」は何をどうしたらいいのか。ああ、この強い思いは胸をかきむしられる思いだ。真麻はおそらくアサ科の大麻 hemp。あるいはイラクサ科の苧麻ramie とも考えられます。いずれも古代から庶民の日常着の材料として利用されてきました。)

 上つ毛野 安蘇山(あそやま)黒葛(つづら)野を広み 延(は)ひにしものを何(あぜ)か絶(た)えせむ   
                                     巻14-3434
(安蘇はすでに歌枕になっているようです。つづらは、アオツヅラフジやフジなどの落葉する木本つる植物の総称。 この歌の黒葛とは、夏の間は蔓が緑色 で、冬になると黒くなるところから青葛藤(あおつづらふじ)か。なおこの黒葛で編んだ籠は最高級品です。)

 *
3406、3418、3420の三首に詠みこまれた「佐野」は、群馬県高崎市(上野の国)の佐野地域と考えられます。「佐野の舟橋」は以後歌枕としてのちの歌人に影響を与えました。 

                      
 【栃の実 こぼればなし】  「とちる」とは

台詞やしぐさを間違えること、転じて失敗することも言いますが。これは「栃綿棒・とちめんぼう」からきた言葉。「とちめく」の「とち」と同源。栃綿棒は栃の実の粉を原料にした栃麺を作るのに使うのし棒のことで、せっせと伸ばさないと硬くなってしまうことから、慌てるさまや慌て者のことを言います。 
栃木県人に取って、あまり嬉しくない言葉ですね。
                      文中のテキストは『万葉集全講』 武田祐吉著から引用しました。