万葉の植物  はり  を詠んだ歌
                            2012.10.14 更新

 
  
   はり  (万葉表記  榛 針 波里)     ハンノキ  (カバノキ科)

日本全国の山野や湿地、低地に自生する落葉樹。朝鮮半島や満州にも分布します。樹高は15〜20m。
河原や湿原のような過湿地において森林を形成する数少ない樹木。 そう言えば那須の那珂川の河川敷に繁茂し、単種の林状態になっているのを見かけます。
花期は冬の12月から2月頃。雄花穂は黒褐色の円柱形で垂れ、雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び雄花穂の 下部に付きます。果実は松かさ状で10月頃熟し、現在秋の風に揺れています。
良質の薪炭の材料として伐採されていましたが、最近はそういう利用がなされることも無く、放置した土地や水田耕作放棄地に繁殖する光景が見られます。

万葉の時代には、はりの木の樹皮や実を利用して草木染めを行っています。特に「榛摺・はりずり」は、焼いた黒灰を使って摺り染めを行ったもの。色は黒に近い茶色。労働着として有用です。
集中14首。なかでも榛の木を色染めの材料として、あるいは染めた色を詠んでいるものが13首。
榛の木と染色は強く結びついていたのですね。


 綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背   井戸王 巻1-19

   (綜麻とは、紡いだ麻糸を丸く巻いたもの。「綜麻形の林」とはどこか。詠まれた歌の背景が分からないと、理解が深まらない歌です、この歌は。
『古事記』の崇神天皇の条にある三輪山伝説に、三輪山の神が活玉依毘売(いくたまよりひめ)のところへ通っていたが、神は身元を明らかにしない。それを針に糸を通して神の衣服に刺し、その糸の先を辿っていくと三輪山の神であったことが判明した。
三輪山のハンノキで染めた色が衣によく染まるように、我が君(天智天皇)は立派にお見えになります、と詠った井戸王。王とありますが、天智天皇あるいは額田王に仕えていた女官かとも。
額田王の、近江遷都の折に大和から山城へ向かう途中に三輪山を顧みて愛惜の情を陳べた長歌:

    味酒(うまさけ)三輪の山あをによし奈良の山の山の際にい隠るまで道の隈い積もるまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放けむ山を心なく雲の隠さふべしや  

この歌に和したものか。

    二年壬寅、太上天皇(おほきすめらみこと)の參河国に幸しし時の歌
 引馬野ににほふ榛原入り亂り衣にほはせ 旅のしるしに       長忌寸奧麻呂  巻1-57

  (太上天皇とは持統上皇。大宝2年(702年)藤原宮を発ち、三河国へ行幸したときの歌。)    
   
 いざ児ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ       高市連黒人  巻3-280

   黒人の妻の答ふる歌一首
 白菅の眞野の榛原往(ゆ)くさ来(く)さ君こそ見らめ真野の榛原   高市連黒人の妻  巻3-281

  (この2首は、旅にある高市連黒人とその妻の歌。さあ榛の木を手折って早く大和へ帰ろう、と詠む夫に対して、ゆっくり見物しますと言う妻。古代の旅は苦しいものでしばしば命を掛けての旅となることもありました。和やかな雰囲気を感じるのは、  高市連黒人夫婦の性格からか。)

 住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく          作者不詳 巻7-1156

 いにしへにありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原      作者不詳 巻7-1166

  (上記、3-280,3-281の高市連黒人夫婦の歌を元にして詠んだ歌。むかしの高市連黒人が求め手折っったハンノキの繁る真野の榛原よ。高名な歌人の詠んだ地は歌枕として後世の人の心に残るのでしょう。)

 時ならぬ斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども          作者不詳  巻7-1260

 白菅の真野の榛原心ゆも思はぬ我れし衣に摺りつ           作者不詳 巻7-1354
 
 伊香保ろの沿ひの榛原ねもころに奥をなかねそまさかしよかば    東歌 巻14-3410

  (「榛原の根」を「ねんごろに」の「ね」に掛けています。 「まさか」とは現在のこと。「奥」とは時間的な先を表します。いまだよ、今が大事なのだと歌う素朴な思いに共感します。)

 住吉の岸野の榛ににほふれどにほはぬ我れやにほひて居らむ    娘子 巻16-3801