万葉の植物 あし を詠んだ歌 2012.11.6更新 |
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![]() 全国の池や沼などの水辺に生えるイネ科の多年草。高さは1.5mから3メートルとかなり大きく生長し、地下茎で殖え、大群落を作ります。稈(茎)は硬く、中空で節があります。 秋、円錐花序の薄紫色の花を咲かせるのですが --- あれが花だと今まで認識しなかったの何故でしょうか。 葦(あし)という呼び名は、「悪(あ)し」に通じるので後にヨシ(良し)に変えられました。植物分類学では「ヨシ」が標準和名。 若芽は食用に!(知らなかった)、稈はすだれに、垣根に燃料にと利用価値があり、身近な植物として読み込まれています。 豊葦原の瑞穂の国。--- 日本の国の美称。 (水利が良く)葦が豊かに生え茂りイネが稔る美しい国。 |
『万葉集』に葦は55首に登場します。 葦に鶴を配した歌が多く(11首)、雁や難波の港などといっしょに詠まれた歌も数多く見られます。 ![]()
(文武天皇が難波の宮に行幸した折、お供の志貴皇子が詠んだ歌。陽暦では11月中旬から下旬の行事。寒々とした水を鴨が泳いでいる。その鴨にも霜が降りる寒い夜は、ふるさと大和がしみじみと偲ばれる、と詠む志貴皇子。素朴な歌、自分の感情を鴨に移入した歌。いつものことながら志貴皇子の歌は心に響き、沁み通ります。) (大伴田主を見舞った歌。葦と足の同音を掛けてあります。) (『古事記』、『日本書紀』に表された日本の神話を題材にした長歌。)
(いたるところの水辺には葦が生え、鶴が渡ってきていた古代、葦+鶴は良く見られる光景でした。 (「あしたづ」と「たづたづし」。同音の関係で3句までは序詞)
(眼前に鶴が羽ばたく様子が見えるような、流動的で清澄な歌。叙景歌の極地と言われる由縁。古代歌謡には叙景歌は見られず、山部赤人に至ってようやく現れました。神亀元年(724年、聖武天皇の紀州行幸の折に赤人が詠んだ歌。)
(「湯の原」とは大宰府の西南にある武蔵温泉。還暦を過ぎた年齢の帥・旅人の素直な詠いぶりには驚きます。この妹とは大宰府で亡くなった妻・大伴郎女か。共に温泉に遊んだ思い出に浸る旅人。)
(難波の宮にまで田鶴の鳴き声が届いていたのですね。大宮人にとっては感興をそそられる声だったでしょう。)
(こんなに寒い夜は、雁は葦の元で寝ているのだろうか。霜も降っていることだ。雁の北帰行の時期は難波の春、葦の芽吹く頃。葦は秋、薄紫色の花を咲かせます。花の時期に北からやってくる雁と寒さの増してきた風との取り合わせ。) (「さだ」とは他人の口、すなわち批評。人の世は昔も今も変わりがありません。)
(燃料としての葦は、なかなかに燃えにくいもの。一時は燃え上がるものの火力が続かず、くすぶってしまいます。煤で黒くなった我が妻の、煤けた顔も格別に愛しいものだ。生活を共にし苦労を重ねる妻は、おのれか妻か。分かちがたく愛おしい。)
(鶴の鳴く声と詠んだ歌。ほとんどの鶴の歌は「鳴く声」を詠んでいます。「くぉぉ」と鳴く声に何を思ったのでしょう。)
(譬喩歌。葦鶴が集まり騒ぐ池の水が溢れるように、私はあらぬ方へ越えて行ったりはしません。貴方一人を愛しています。)
(葦の茎は堅く、垣根やすだれを作る材料として利用されました。「葦の垣根をかき分けて、恋しいひとが我が家を訪ねていらっしゃったことを、人にしゃべってはいけませんよ、分かりましたか。」と飼い犬! に呼びかけた歌。反歌) (雁の羽と夫が腰につける矢を重ねて。)
(山辺赤人の歌919を本歌として。新羅へ遣わされた使者の歌。鶴と田鶴(たづ)---田に降りている鶴の姿が万葉人にとってはひときわ印象に残る光景だったのでしょう。)
(「難波」と「葦」の取り合わせ。万葉の時代には、現在の大阪湾が内陸まで延び、幾筋もの川が分かれ入り乱れ、湿地帯が広がり葦が群落を作っていました。「葦が散る」は「難波」を導く枕詞。難波の海ののびやか様相を見て、ああ、この地で何年も過ごしてしまいそうだ、過ごしたいものだ、と歌う家持。天平勝宝7年(755年)2月、防人を率いて難波にあった兵部小輔大伴家持が難波の宮を褒める長歌とその反歌を詠みました。「ゆたけき」いい言葉です。) (防人の情になりて思を述べて作れる歌、とあります。) |