万葉の植物 あさ を詠んだ歌 2012.12.28 更新 |
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あさ (万葉表記 麻 安佐 安左 朝) アサ (アサ科) 中央アジア原産、雌雄異株の一年生の草本。。カスピ海からシベリア、ペルシャから北インド、ヒマラヤに自生。 中国では紀元前2000年には四川、湖北地方ですでに栽培されていました。 日本には1世紀ころ渡来、食用や薬用としてに利用され、後に木綿(コットン↓)が渡来するまで一般人の衣服用に重宝されました。 大麻、大麻草と呼ばれます。用途としては、布、糸、縄、帆、下駄の緒、茅葺屋根、小鳥の餌、種子は苧実(をのみ)で香辛料、絞って油を取るなど。 古代人はこの麻を魔物よけとして、あるいは葉の模様から縁を結ぶものとして考えていました。 古くから神道と関わりがあり、戦前までは米と並び作付け量を定めて栽培されていたほどの主要農作物。 花から麻薬(ハシン)やマリファナが取れ、吸飲、喫煙など嗜好料とされてきましたが、古代の日本で栽培されていたものは、麻薬成分をほとんど含まなかったようです。 「麻」は長くて強い繊維が取れる植物の総称で、世界には、20種類以上の、それぞれ特徴を持つ麻があります。 大麻のほか、亜麻(フラックス、リネン)、苧麻(からむし)、ジュート麻、ケナフ、サイザル麻、マニラ麻などが代表的。 現在の日本では麻と表記できる繊維は亜麻製と苧麻製に限定されているます。ですから大麻製の繊維は麻ではなく、「指定外繊維」と表記される --- といっても現物にお目にかかったことがありません。
日本で栽培されていた麻の別名を、「を」(苧 麻)、「そ」(麻 素 蘇)と言い、また大麻(おほあさ、たいま)、麻苧(あさを)、真麻(まそ)の別名も。元来、麻は大麻から作られた繊維を差す名前でした。ところが、海外から渡来したアマ科の アマ(亜麻・アマ科、写真右下)やイラクサ科の
カラムシ(苧麻・イラクサ科)なども「麻」の名称を使うようになったため、本来の麻が背高く生長することから、大麻(おおあさ、たいま)と区別して呼称するよう
なったととされています。
福島県奥会津昭和村 からむしの里 <https://showakanko.or.jp/see/michinoeki/ >
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藤原宇合大夫、遷任して京に上る時、常陸娘子の贈る歌一首 庭に立つ麻手刈り干し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな 常陸娘子 巻4−521
(都から来た役人と土地の娘との悲しい別れ、永遠の別れ。わすれたまふな、君よ。)
(妹背山は、吉野川が紀の川と名前を変え、水を集めて悠々たる大河になっていく場所の両側にある山。下れば大和を離れて異郷・木の国にはいる。旅人はある感慨を持って通り過ぎる場所。麻を蒔くのですから季節は春。ぼうと霞む山々の間を紀の川が流れる --- 望郷の思いに、あるいは訪問する国への期待を胸に。)
(都での任務を終え、国に帰る時の歌。愛情を込めて織った麻の衣を着て、ようやくここまでたどり着いたのに、あわれ旅人よ。この時代、旅することは命がけでした。)
(「あさもよし」は「紀」の枕詞。大宝元年(701年)秋、持統天皇が紀州へ行幸した際、お供の調首淡海が詠んだ歌。「紀人羨しも」と2句と結句に重ねているのが、素直な心の表象。)
(麻草の下草には露が降りているのでしょう。夜が明けてからお帰りなさい、あなた。 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも 東歌 巻14-3350
(筑波山の麓で桑を植え、蚕を飼い絹布を織る。絹の織物を着られるのはほんの一握り、調布として捧げる上流階級の人のみ。
常陸の国は麻布を作って献上する分量が一番多い国でした。手を荒し夜なべをしてもその絹を身にまとうことはない。でも、いとしく思う君の「御衣」・みけし」の着物を着たい--- 粗末な麻の織物のほうが絹よりも価値がある --- 一途な女ごころです。恋人同
士になると衣服を交換する習慣がありました。衣服に魂がこもっていると考えていたのです。) (直截な表現に生命力を感じますね。 現在も下野の国の安蘇郡では、麻畑が見られるようです。麻の束を抱くようにお前を抱きたい。生活に即して愛情を歌い上げる --- 真情が伝わります。) 多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき 東歌 巻14-3373
(ここで多摩川に晒しているのは手織りの麻布。布を柔らかくし、白くするためです。寒中の作業はつらいものがあったでしょう。この「さらす」「さらさら」にの調べの美しさよ。多摩川の清らかな流れが目に浮かびませんか。どうしてこの娘がこんなに愛おしいのか。労働歌ですが、なんと真摯な情に溢れていることか。
精神と肉体が一つに結ばれる、これこそ完全な世界だったのでしょう。) (さあさあ、そんなに働かなくても。さあ、誘ってくれ。小床に。一緒に休もう。---なんと真っすぐな表現であることよ。) |