ぬばたま

 ぬばたまの夜  ひおうぎ 檜扇  
                                       アヤメ科アヤメ属  ぬばたまはヒオウギの黒い種

ヒオウギ(檜扇)は、宮中の儀礼に使われる扇。このヒオウギの根元から出る葉は、広い剣状で葉が扁平に互生し、見たところ檜扇に似ています。黒く熟した実がぬばたま。
黒い色や夜の暗さに枕詞の「ぬばたま」を被せることにより、読者は特定の感覚を共有でき、イメージを膨らませるのに役立ちます。
 古代人は、枕詞を投げかけることにより霊威を慰撫し、自然に対する恐怖心を言霊の力を借りて鎮め、災いを避け豊かな収穫を祈る---言葉そのものが霊を持つ、すなわち言葉通りの状態を実現できると考えたのでしょうか。

    ぬばたまの夜の深けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 山部赤人 『万葉集』  6-925   
 

  「さあ私の髪は、ぬばたまの夜のように黒く、烏の羽根のように黒いのだ」と思い込もうとしても---  

           『赤毛のアン』 第2章 マシュゥ・クスバート驚く

(`Now my hair is a glorious black, black as the raven's wing.' But all the time I know it is just plain red and it breaks my heart.  )
 

glorious black」で、「raven's wing」のような髪の色にあこがれるアン。
私にも11歳の頃がありました。気持ちは良く分かります。

島には、日本のヒオウギによく似た植物が生えていて、その名もBlackberry Lily」。この花の種もやはり黒く熟します。
花姿は、Lilyを想像させるようです。

 
村岡訳に「ぬばたまの黒」、「烏の濡れ羽色」とあるのが、日本人にアピールする表現で、時代を感じさせますね。北米にはヒオウギと同じ植物(Blackberry Lily)が分布します 。、作者がここで「ワタリガラスの羽根(raven's wing)」で髪の黒さを表現しているのにも興味を惹かれます。

 * ワタリガラス( 
common raven)--- 日本の「ハシブトガラス」に似ていて、すこし嘴が細いか。
                                                                  「
raven」」は黒い髪の色」。
北欧神話、アイスランド神話、旧約聖書 などに、斥候として、あるいは方角を知るために、洪水が引いたかどうか確かめるために。このワタリガラスが登場します。日本の八咫烏(やたがらす)は、日本神話の神武東征の際して、神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス。
道案内としての力を持ち、霊力に預る「カラス」を、洋の東西で神話に組み込んでいる---いずれも、髪の黒さがカラスの羽に比較されていること。
この同時性に驚くのでした。

では赤毛を嫌ったアンの、その理由はどこにあるのでしょう。単に美しくないから?
いくら想像力を働かせても変えられないもの、この悲しい赤毛よ。
アンが自分の鼻の形の良さを心の拠りどころとし、この年齢にしては必要以上に他人の姿形に心を寄せるのは、11歳という自我が目覚める時期もあるでしょうが、当然、アン自身が現状に自足していないからでしょう。『赤毛のアン』第3章に、「可愛らしい子だったらグリーンゲイブルスに置いてもらえるのか」と叫びにも似た声をあげていますね。今も昔も、女性にとって美しいのも能力のうち。家族という自身が属する場所が欲しいアン、心を寄せることのできる人間に出会いたいアン。本来アンの魅力の芯はその心映えにあるのに、赤毛であること、赤毛の持つイメージの悪さを嘆きます。
アンはスコットランド系の人間です。
スコットランドの赤毛の人は、その昔魔女として迫害された歴史を持ち、差別的な意味を持つ「ジンジャー」と呼ばれ偏見の対象にされてきました。
スコットランドやアイルランドで比較的見られる赤毛でさえ、このような状態ですから、まして移民の島プリンス・エドワード島での周囲の感情は容易に想像できるでしょう。
そう言えば、『アンの青春』のなかに出てくる隣人ハリソンさんの飼っているおうむが「ジンジャー」でしたね。アンの赤毛とハリソンさんのはげ頭、おうむのジンジャー、この対比の面白さが際立つシーンがありました。
赤毛は遺伝子の突然変異によって起こる劣性遺伝。かがやく瞳、白い肌、紫外線に過敏でそばかすができやすいことで知られ、遺伝的に優れていないという差別がありました。

旧約聖書『創世記』に登場する兄弟カインとアベル。アベルを殺したカインは赤毛とされ、またイエスを裏切ったイスカリオテのユダも赤毛である、という伝承。優性遺伝子を持つ黒髪、美しい金髪に比べ、赤毛の持つイメージは決して良いものではありません。 

しかし、アンよ。

・ きれいでぽちゃぽちゃしている自分を想像するのが好き。
・ 私がかわいい子だったら・・・
・ みっともないから、自分と結婚する人はいないだろう

「想像した自分に」つかまっていないと怖いのですか。不安なのですか。
他人の視線のなかにある自分。これにしがみつくのですか。
うちなる自意識と、他人を意識しての自己抑制。これをどう使いこなしましょう。
19世紀の終わりごろ、20世紀近く。女は一人で生きられない時代でした。
非凡であるよりも平凡を選ばざるを得ない時がくるでしょう、結婚への道を歩むなら。
やがて夫となるギルバートに、最優等の席を譲り、自分は具象の象徴である「言語」を扱う部分で優等(奨学金)を取る・・・・これはジェンダーのなせる必然だったとも思えるのです。
 


 

それに、もう一つ、これは全くの私見ですが。
アンが髪を染め、短く刈ったあとは、金褐色に近い色に変化してきたとあります。

 「みっともないあかぼ」で「とてもやせて小さくて目ばかりだった」。
           『赤毛のアン』 第5章 アンの身の上

 (
Mrs. Thomas said I was the homeliest baby she ever saw, I was so scrawny and tiny and nothing but eyes, but that mother thought I was perfectly beautiful.)

でも、お母さんは、「とても可愛らしい」と思ったのですね。よかったこと。
これらのことから、アンは未熟児で生まれたのではないか、と考えました。
生まれ月の3月はカナダではまだまだ冬真っ盛りの寒さ。
加えて厳しい生活の中で幼児時代を過ごしたことを考えると、栄養失調で髪色が薄く赤かったのではないのか、とも思うのです。

  ○   鳥の目となりて海辺の径をゆく過去広がれるひと日よあはれ   (Ka)