早稲田大学エクステンションセンター主催の講座を受講して
講師:ノートルダム清心女子大学文学部名誉教授。赤松佳子先生
テーマ:L・M・モンゴメリと『赤毛のアン』 全六回
10
月1日(水) 第一回 L・M・モンゴメリと『赤毛のアン』
翻訳による日本での受容
ようやく講座を受講できる機会に恵まれました。先生のやや低く通る声で初回ならではの総括的な説明がなされ、内容の理解が進みました。次回からの講座が楽しみです。
作者モンゴメリの生涯、作品群の説明、翻訳の力、アンの影響力、さらに作者と読者が絆で結ばれているという結びは、研究者ならではの内容でした。
印象に残ったのは、村岡花子訳への評価です。戦争----終戦という歴史の転換点で訳者は
何を感じたのか。訳された時代背景を理解しながら、正当に評価なさろうとする姿勢に共感します。
日本の読者は戦後村岡訳のフィルターを通してアンの世界を知りました。日本の側にそれを必要とした要素があるはずでしょう。
時代によって解釈は塗り替えられます。現代の村岡訳の解釈は、過去そして現在の社会の在り方に影響されていることを無視できません。
英 語と日本語の語彙のずれをどう表現するか。これに苦慮した村岡訳の与えた影響は大きく、その後に続いた多くの翻訳も村岡訳の傘から逃れられないのではないかという印象を受けています。
抜け訳----かねてこの事実をどう受け取ればいいのか、疑問に感じていました。多面的に活動し、翻訳に使命感を持って臨んだ村岡花子が抜け訳に気づかぬわけがありません。
(「暴言を吐いた」との言葉に驚きながら、口にされた気持ちを想像します。同感です。)
置かれた場所で咲きなさい。これは仏道の「人としての務めを果たす」教えと共通していると感じました。人の生き方にはどの宗教においても、確固たる基盤のようなものがある
のですね。
アンが自分の意思で進学をあきらめ、地元の学校の先生として働き、さらにギルバートと共に大学の課程を学ぶ決心をする。儒教の教えと共通する理念を感じます。フェミニズムの考え方では後退と受け取られますが、向上することをあきらめたのではなく、前進するための----曲がり角での足固めの行動です。このアンの行動は日本人に理解されやすいことでし
ょう。
「読者は作品を多義的に受け取り、自分に引き寄せ生きる喜びや指針としようとしている。」なるほど、日本の読者が多方面(料理、ファッション、自然、ガーデニングな
ど)にアンの世界を楽しんでいるのは、こういう精神の働きがあったのかと思わされました。文学的にどう評価するか。これに自分の気持ちが引きずられていましたが、楽しむことからはじめ、他人とのつながりを強くすればいいのだと思い知らされます。
翻訳の多さは、それが開く世界の広さを感じさせる。読み比べることで発見があり日本語を吟味しながら読む力に繋がる。この意見に目を開かされました。
10
月15日(水) 第二回 L・M・モンゴメリと『赤毛のアン』
想像力と表現力
今回の講座で認識を新たにしたこと。それは「マクロの視点とミクロの検証」のバランスでした。全体を見通そうとする努力と、
一つ一つの出来事や表現を精緻に検証する作業にこそ作品の正しい評価、解釈に繋がる道があることを学びました。
赤松先生の、バイアスをかけずに多くの訳をそのまま受け入れ、それぞれの特徴を抽出して精査する態度に、われわれアマチュアの「好きなことが大切だ」という姿勢を問われたような気がします。
しかし、アマチュアの「アマ」は「愛」そのもの。われわれは何を求めているのでしょう。それは人生の指針めいたものかもしれません。
アンの存在には、人間が生きるに必要な本質が詰まっています。隣人と絆を結び、手を伸ばし、他者への愛を優れた表現力を用いて表そうとしている。これも学びました。
ア ンの精神性(心)は、どこにあるのか。自分の身体の外側に接した部分に宿り、外界と容易に交流、交信できているのでは?こういう不思議な感覚さえ覚えます。
他人の立場に立つことができ関係性を俯瞰する態度を身に付けようとするアン。名付けをすることで、環境へ適応する力を得、関係性を再構築することができると信じている姿に惹かれます。
他者とのかかわり方や社会の役割を通して成長できるのです。
孤独であったからこそ、自分の心を開き他者とのかかわりを大事にする----流されるのではなく得た関わりを丁寧に選び育てることができる。能動的に学び、考え、行動する感情を抑えることも学んだアン
最後の「自己肯定感」について。自己が立つべき場所を手に入れたことで、自己肯定感が確立される。モンゴメリの作品群に、属する場所に「名前が付いている」ことに象徴されているのは、かねて感じていたこと。
この「自己肯定感」についての説明は今回の講座の一番の注目点な のに、説明が短くて時間が足りないという印象を受けました。
10
月29日(水) 第三回 L・M・モンゴメリと『赤毛のアン』
赤毛というコンプレックスがもたらすもの ――少女が繰り返す失敗とユーモア
「赤毛」の持つ文化的背景から説かれた内容は興味深いものでした。「赤」の持つ意味について視点を変えながら説明してくださると、作者が歴史的にいい意味を持たない「赤」を、主人公に被せた理由を想像する楽しみが増えました。
今回の講座で特に印象に残ったのは、「事実、作中の表現」を抜き出して評論を展開する手法でした。読者は(私はとも言い換えられますが)全体の印象をおおまかに掴み取ることが多く、上記の方法を用いて結論を引き出すことに思いが至りません。どうやら二項対立が分かり易くて、ついその方向に流れてしまうようです。
批評とは「証拠を取り上げて分析すること」。どういう点から作品を評価するか----赤=キーワードとしての赤の意味が光ります。
恣意的な態度から分析的手法へ。思考を確実なものにするために、細部に目を凝らし分析し、それを統合することで開けていく視点があると教えられました。
今回特に考えてみたいのは、リンド夫人が果たした社会的作用・役割です。 G.G.の疑似家族以外の、他者との大きなかかわりが、リンド夫人との間にあったのは、滑稽味を帯びていたものの意味深いものでした。リンド夫人とも出会いで「他者と結びついている自覚」(共同体感覚)を得て、自分が属する共同体に一歩踏みいれたことを実感できた事件でした。(アドラー心理学による)
この事件こそが、のちのアンの行動に結びつくものだったと考えています。人は人との繋がりの中で変化していきます。共同体に属する、貢献できることで生きる意味を見出していくのでしょう。これが『アンの青春』に見られるボランティア活動に結びついていきました。
孤 独によって病んでも、社会的な繋がりを得ることで心が回復する(レジリエンス)。アンはリンド夫人にその後の生き方についてのカウンセリングを受けたとも考えられます。
同調圧力でないリンド夫人のジャッジがもたらしたものは---アンは自分を公平に扱ってくれる場所に、自身を連れ出す精神の強さを獲得したのです。かくてアヴォンリーへの世界は開かれました。
過去の嫌な記憶を再体験することなく、将来を見通し目線を水平からさらに上へを保つ努力は、疑似家族とリンド夫人をはじめとする女性とのかかわりから始まりました。孤児に対する偏見を持つのは当然のことでしょう。偏見を取り去った人を、緩やかに変化させる力を持つアンです。
(アンは女性の登場人物にサポートされ、エミリーには男性の理解者が現れる----この違いはどこから出てきたのか。
ここまで書いた時点で第4回のお知らせがあり、レジュメの中に「アンを見守り、育てる大人たち」とありました。このことについてさらに詳しく学べることでしょう。)
11
月12日(水)第四回 L・M・モンゴメリと『赤毛のアン』
アンを見守り、育てる大人たち ―<同類>と呼ばれる人々との絆
「不美人で孤児の主人公が人生に立ち向かう物語」の系譜に連なるアンを描こうとした作者が影響されたものは何か。作者の成育歴や家族関係なのか。同類とアンが認定したのは、なぜ女性が多かったのか。アンの周囲の女性同士の絆は、作者の内面を投影したものか。こんな疑問を持ちます。
例外としての男性マシューは、人とのコミュニケーションが得意でなく、女性性も併せ持つ存在。(ミソジニー?)その女性性が周囲の女性を遠ざけるのでしょうか。なぜ初めから二人は理解しあえたのでしょう。アンと惹きあったのはあるいは「変わり者同士」だったとの指摘は興味深いものでした。
男性中心の社会の中で、各人の思考にはバイアスが掛かっていることに気づきます。なぜ女性がアンを見守り、育ててくれたとの設定がなされたのか。他の「エミリーシリーズ」のように、男性の理解者を登場させなかったのか。女性だけで完結させているのに興味を引かれます。
時代のありかたが影響を与えた点は無視できないでしょう。独立した国家への道を歩もうとするその時代に生を受けた作者が、社会全体の気運の高まりを知らず内面に取り込んだとも考えれましょうか。
作者は長く祖母と暮らし、介護に携わっていました。当時の相続制(限嗣相続制)によって住み慣れた家を追い出される羽目に陥ったこと。母を早くに亡くし、父は不在、継母との関係は良くない。女性であるがゆえに不条理な扱いを受けた作者は、女性同士の絆によって社会にある問題に立ち向かい、現実生活を乗り越えていく主人公を生み出し、現実生活の「厳しさの裏にある美しさ」に気づいていく。
-----男の子が欲しかったのに、自分は女の子だ。これを反芻するアン、なんとか二人に報いたいと考えているアン----
才能のある女の子が、努力によって人生に立ち向かう。努力は報いられる(こともある)。このことに力づけられた読者は大勢います。
結婚してからのアンは面白くないという意見が聞かれます。医者という夫に経済的に依存し家事全般の手伝いを雇い豊かに暮らすアン。この状況が人を動かせるか?
「男と女がいて、子を産み育てる」。人としての原基を体現しているアンは、やはり 女性性を内在していて、それから逃れることはできません。
実際的で思考と行動が結びついている末娘リラ。リラが選択する芸術家の妻という人生がどう展開するのか、興味があります。あるいは、リラが選択した状況は『丘の上のジェーン』の主人公ジェーンが戦後に、あるいは社会活動に生きたかもしれない人生との共通性が見られるようです。
11月19日(水)第五回 L・M・モンゴメリと『赤毛のアン』
主人公と同世代の友人たち ――同性の〈心の友〉と異性の〈ライバル〉を中心に
愛情を受けることなく貧しく孤独な子供時代を過ごしたアンが、他人(友人)との繋がりを求めて仮想友人を生み出す----労働に追われ、この時代の暮らしにに重要な宗教の規範さえも教えられることなく育ったアンの寂しさを思うと、胸が詰まります。
強調したいのは「アンの精神力」です。上へ上へと。閉塞された環境から違う世界の存在を信じて生きていく精神力です。精神力の強さが「石板事件」に繋がるし、「心の友」ダイアナを始めとする友人たちへの思いへと結びつきました。愛を求める心が、言い換えれば友達を作る才能をより増幅させるのでしょう。同時に反発心も生まれます。
いじけた子供時代を送って、コミュニケーション障害を持つ人間はそこかしこに見られます。溢れそうになる自分の心に「くびき」をかけ「友情の輪」を求めるアン。
与えられた場所、環境、地位が人間の性格を作り上げます。繋がりを通して自分の存在を確認することができます。
共同体の一部として存在することを自認できたとき、若者の未来はより開かれたものになるのでしょう。この田舎の共同体の仕組みの中の自由が、若者の思考を均一化することを防ぎ、足が地についた暮らしに結びついている(浮草にならずに)のに、感嘆します。
(『赤毛のアン』と『アンの青春』は、続けて書かれたことから、私の中では知らず一体化しているようです。)
参考:(『エミリーシリーズ』の登場人物ディーン・プルーストは、女性性を持ちます。ある時はエミリーと引きあい、また違った場面では反発しあう。ディーンの病気(おそらく突発性脊椎側弯症)が大きく影響し、働かなくても生きられる環境が、性格を偏頗なものにした可能性もあるでしょう。そろそろ病気からくる痛みが発生する年齢です。長く抑圧された生活を送っていると、複雑な性格になるという悲しい事実があります)
11
月26日(水)第六回 L・M・モンゴメリと『赤毛のアン』
世界一美しい島と温かい家庭――四季と自然描写を巡って
女性同士の結びつきを説くことは、男性との結びつきを引きつけて考えること。
作品は目で読むのではなくて、五感を遣って感じるもの。音を追い、自然描写を楽しみ、踏まれた韻を音に変換してみる。流音に身をゆだねてみる。こんな楽しみがあるのですね。
モンゴメリの自然賛歌が(訳文と共に)心に沁みます。
土地は「ものがたり」を生み出すのかもしれません。故郷は作者の分身でもあるようです。
書かれた時代はカナダの歴史のなかのどの位置にあるか。国の創成期に行き合ったモンゴメリは、必ずやその勢いを感じていたはず。ここら辺を更に考えてみます。作者と作品との距離を測り、カナダの歴史に置いてみることも必要なのでしょう。
暖かい家庭、部屋がもたらすものは大きい。共同体のどこに自分が属しているのか。周囲の社会は小さくても、関係性を構築して共に道を歩んでいく。この積極性こそがアンそのもの。
*「エミリー三部作におけるメンタルヘルスとレジリエンス
ガーデニング療法について」に書かれた内容がアンに適応されなかったのを残念に思います。自然の治癒力には素晴らしいものがあります。自然にカウンセリングされて人が心を取り戻すのは、(現実に林の中に住む)私自身が毎日感じていることです。
終わりに
文学作品を読む態度に「内容そのもの」を優先するか、作者の置かれた時代や社会的環境を知識として先立って持つか。常に悩みます。どちらに傾いても理解のどこかにバイアスを掛けながら読んでいるという意識が付いて廻りますから。
なぜ「アン」が日本人にここまで受け入れられたのか。よくある問いです。
これまでは村岡花子訳のすばらしさ、戦後復興しようとする日本にふさわしい主人公を社会は必要とした。欧米文化へのあこがれがある、劣等感を持ちながらも人生に立ち向かうアンに共感する、カナダの辺境の島の生活ぶりに興味があり、共感した。こんなことを考えていましたが、今回の講座を聞いている間に「ひらめいた」ことがあります。それは日本人の受容能力の大きさ
適応の速さです。
私は長く『万葉集』の勉強を続けてきています。当然、飛鳥・奈良時代が中心です。あの時代は仏教を受け入れ、大陸のさまざまな文化を取り入れ、かみ砕き、自国用の「字」さえ考えついた日本人の受容の精神の大きさに感嘆することがしばしばです。
(ちなみに、飛鳥村の当時の住民は、おもに現在の中国や韓国から、さまざまな技術を伝える渡来人が大多数を占めていたと考えられます。大阪人が賑やかで派手好きでおしゃべりなのは、渡来人のDNAが今に伝わっている説もあるくらいです。納得します。)
講座の中でご自身が訳された文体がしみじみ心に沁みました。単に原文を訳すのではなくて、一度身体に取り込んで消化、反芻した内容を自分の言葉で表現された言葉の群れは、他訳と比較して「素朴で力強くどっしり地に足を付けて踏ん張っている」という印象を受けました。
日々の営み、暮らしの些事にこそ心を救う要素がある。こう感じていますが、モンゴメリの結婚生活は、聖職者の妻という立場もあって、外界(教区の住民など)に適応しようとする努力を重ねるあまり、自分自身に不適応を起こしたのではないか。こんなことを感じました。
徳は弧ならず、必ず隣りあり。
周囲の人が病み亡くなっていく年代に差し掛かりました。アンの希望に満ちた青春時代、子育てへの腐心、友人たちとの交流、息子の戦死、リラの成長と続くのは、作者モンゴメリの苦しみ、不安を作品群にぶつけた結果でしょうか。
救われることも多々ありました。私は、アンに、モンゴメリに、カウンセリングを受けていたのかもしれません。長く、それこそ半世紀以上も。
では長々と書きました。
この秋、毎週のように赤松先生のお元気そうなお顔を拝見できてうれしい経験ができました。思い出に残る秋になりそうです。
ますます、ご研究が進みますように。
2025.12.3 記
【以下最後に】
第一回の講座を受けて興味を惹かれたのは、作者の社会的な背景が会話文に現れ、それを訳者の翻訳文がさらに増幅されるということ。村岡花子さんの東京山の手の言葉を遣った会話文が、以後続く翻訳において、アンの性格や成育歴を規定してしまうと
いう印象を受けたのです。
このことに関しては、ここに置きました。もしお時間があれば読んでいただけると嬉しく思います。
赤松先生がお書きになった論文 【Mental Health and Resilience in the Emily Trilogy:
Emily Byrd Starr and Cousin Jimmy through the Lens of Garden
Therapy】のへ感想
( https://kemanso.sakura.ne.jp/akamatsuresilience%20.htm )のうちの
会話文について 。No.4 です。
「4.話題は飛ぶ。翻訳における会話文---ジェンダーの意識を持って読む こと。ここ数年、翻訳における会話文について考えることが多かった。
たとえば、村岡花子訳の『赤毛のアンシリーズ』、『エミリー三部作』ほかについて考えてみ
ると、翻訳された会話文によって、話者の性格、生育歴、知性などが読み取れ、さらにその 話者の社会的 地位も現れてくることが多い。
アンの話す言葉には、揺らぎやためらいが少なく、貴種流離譚だけでは説明のつかない品格がある。これは訳者の村岡花子さんが、英語話者の中で学びカナダの文化を吸収し精神に取り入れつつも、日本人としてのアイデンティティを失わないように努力なされてきた結果としての訳文だからだろう。
日本文化を理解したうえでの翻訳は、創作の要素まで持つのではないか。これが村岡訳を後世の翻訳家が越える のに難しい部分だと考えている。
小説は人間を通して時代を書く。作品はその時代の記憶で、訳語はその時代の政治形態、宗教、社会の在り方も含め、訳者の教養に裏打ちされたものになる。
訳された会話文には、訳者のもつ社会的規範が滲み込んでいるのが読み取れる。他訳を参
照してみても、アン、またはエミリーの会話文は女性性を強調しているように感じるが、我われ読者はいつかその訳文を受け取り、アンやエミリーの性格を形作っていくことになる。
無自覚の偏見や固定観念に惑わされることもある。
翻訳には秘められた政治性があることを覚えておきたい。特にアンシリーズには人種や宗教に対する偏見、優劣の思いが散見される。その裏にある作者の意図は自覚的だった
のか。」
|